前向きな人は疲れる
かと言って後ろ向きな人も疲れる
カニ歩きする人が良い
みたいなことをいつだったか友人が言っていた。なんだかちょっと面白い表現だし、気持ちも分かる気がするなぁと思いながら聞いていたのでおぼろげながらも覚えている
お休み中にダンスの発表会を観てきました。
身内が出ている、毎年恒例のやつです。
少年少女からおばさま方まで幅広い年齢層の発表会で、都合が合えばなるべく観に行くようにしています。
上手い人の踊りを見ていると、見ているこっちまで身体を動かしたくなる。
重心の動きを目で追ってなぞるのがとても気持ちいい。
絵には絵の訴え方があって、静的なものと思われがちだけども全然そうじゃない。観る人の心を思わずざわつかせてくる作品もあって、そうしたところもとてもすき。
ただやはり身体を使って、空間を震わせてダイナミックにこちらに伝わるのはダンスの圧倒的な魅力だなと。
技術が伴っていなくても、満開の笑顔で踊っているところを見せられると本当に視線を持っていかれてしまう。釘付けになる。
(まぁそういう子は既に上手かったりするんですが…)
かく言う自分もそのまた大昔に舞台に立つ機会がありましたが、スポットライトを浴びて観客席に向き合うというのは尋常じゃないくらい緊張するんですよね。手が震える。脚も本当に笑ってしまうくらいガタガタと震える。全身から血の気が引いてどこを触っても冷たく感じる。あぁ1秒でもはやく終わりたい。そんな状態の中、表情をつくれる、感情を出して演技を行うのは本当に難しいことだと思います。だからこそ、それが出来ている時点でもう素晴らしい。釘付け止む無しといった感じで…
ダンサーの「俺を見ろ!」って気配...というか...オーラというか…そうした雰囲気が好きなんですよね。プライベートでもぐいぐい俺を見ろ!してくる人は苦手なんですが、舞台上で発揮される分にはものすごく好きです。
(例によってタイトルは適当)
低気圧の影響か今朝からずっと頭痛が続いている。吐き気も誘発して気分は最悪。病んだ時に改めてわかる健康の尊さかな…
なんとか不調に耐えながら一仕事終えた。今、車内でボーッと外を眺めている。
仮眠を取ろうかと思ったが、座席を傾けると余計に気持ち悪さがこみ上げてくるので止めておた。うまくいけばリバースしかねない。
なのでボーッとしておくことにした。無になってひたすら外を見続けることにした。
車がまばらに通り過ぎていく。マンションの管理人らしきおじいさんがゴミ捨て場の整理をしているのが見える。若い男が歩きスマホをしている。姿勢が悪い。おばちゃんがゆったりゆったりと自転車を漕いで交差点を曲がっていく。ゆったり過ぎて倒れそうだが大丈夫か?
ついさっきまでせかせかと社会の流れに乗っていたのに、ピタッとそこから外れたときのこの感じは嫌いではない。学校を午後からズル休みするような…早退するような…みんなまだ数時間残る中自分だけお先!する。それに近い感覚かもしれない。
それに加えてもう一つ、ゆったりとした時間を感じられるのが良い。街中じゃまた違うだろうけども、今いるのは中心地から外れた場所なので、すべてがゆったりとしている。せかせかしていない。実は社会ってもっとゆったりしているものなのかもしれないとかなんとか考えたりしながらボーッと外を見ている。
ボーッとすると言うとシャーマンキングの主人公、麻倉葉を思い出す。学生の頃に読んだときにはなんて暇な奴なんだろうと思っていたけども、今なら分かる気がする。
せかせかの流れに乗りすぎてせかせかしてしまった精神をゆったりに戻す作業というか。バランス感覚を矯正する作業というか。まぁそういうの抜きにしても、景色を眺めていると忘れていた考えや思いがふと浮かんでくるので好きだ。
ぽちぽち携帯をいじっていると丁度良い頃合いになってきたので帰ることにした。
吐き気はすこし収まっていた。
ここ最近話題になっている噂の壷男ゲーことクソゲーことGetting Over Itをクリアした。
結論から言うと、全然クソゲーではなかった。嘘。クソゲーだけど紙一重でクソゲーではないという感じ。クソを愛する者にとっては神ゲー。
操作に慣れず、コースの先行きも分からないままスタート地点まで戻されていた時は受けるストレスが半端なく、それこそゲームどころか苦行と呼べる代物だと思っていた。
それでも、たまに上手いこと登れたり、ハンマーの扱い方を掴みかけた感覚を覚えるたびに、ゲームを止めようとする自分にストップをかけられた。
そんなとても細い糸を頼りにゲームを続けていく内に段々と手応えを感じるようになり、ある段階から確信めいたものになり、ついには何だかやれてしまうのではないか?という根拠のない自信まで出てきて、ついには登頂した。
根拠のない自信を得られた時って、自分では気づいていないけど鍵となる手段や考え、知識を既に身につけたり得られているってことなのかもしれない。気づいていたら根拠がある訳だし
で。
操作性が悪い悪いと言われ、それ故にプレイヤーのミスを誘ってRage Quitさせるクソゲーと言われてきたこのゲームだけれども、登頂した人はたぶんおそらくそれは違うと口を揃えて言うと思う。
操作性は悪くない。ただ確かに癖があり、慣れてもなお捌ききれないほどのじゃじゃ馬っぷりではある。だけれども、ちゃんと狙いをつけ、しっかりとハンマーを正しく扱えば面白いほど思っている通りの動きが出来てしまうのだ。
これは操作性が悪いと言えるだろうか?
本当に操作性が悪いゲームというのは存在して、挙動ひとつひとつすら乱数めいたランダム要素が絡んでくるようなそういうゲームは真にクソゲーで、よほど音楽が良いとかストーリーが良いとかでないと続かない。操作性が足を引っ張って止めることもある。
取っつきにくいのは確か。取り扱いが難しすぎることがクソゲーであるという評価の要因ならば、確かにこのゲームはクソゲーである。
52週間で1年が経つ。
こう置き換えた時、1年とは何と短いものなのだろうかと思う。
時間にして8760時間。
ここから睡眠、仕事、家事等々に取られる時間を差し引いていくと残る時間はこれより短いものになる。
©つくみず 少女終末旅行 4巻より
こういった事は不定期に頭をよぎるが、その度に受ける印象が大きくそして重くなっていっている気がする。
節目の年齢が近づいてきているからかもしれない。
夏休みの宿題を休みが終わる間際でギリギリ終わらせてきた人間なので、先のことを余り考えずに雰囲気と流れで生きているのだけれど、中々そうもいかない時期に差し掛かりつつあるのかもしれない。
空っぽの人間に先のことまで見通せと言うのは中々に酷な事だ。
人生設計しっかりしている人を見ると本当に凄いなと思う。緻密に設計なんてしていたらもう途中で不安が爆発しそうになるし(と言うか、実際にそうなった)そもそもそこまで詳細に設計できるほど先のことを思い浮かべられないので。たとえ大雑把でも難しい。
まだ幼かった頃、やりたい事がないなりたいものが無いと床に寝転びながら泣き喚いていた時期がしばらくあった。
やりたい事を下さいと馬鹿みたいに大真面目に神様に祈ったりもした。
そんなことをしばらく延々と続けていたら心が壊れかけたのでやめた。
自分探しやら自己PRの捻出やらで精神を病んだ、という話はまあまあ聞くがまさにそうで、あまり自分の内側を見つめすぎると本当に気が滅入る。
なんやかんやあって興味と専攻に紐付いた仕事に就くが、怠惰による過労か過労による怠惰か定かでない理由で降りる。興味はあったがやりたいことではなかったのか、ただやりたいだけだったのかあまり思い出したくない。
長いようで短い休みを経て少し回復したのか、小さな仕事を再びやり始め、やり遂げたら少し休んで、そしてまた次の仕事をして...
そして今、ようやく何とか並のレーンまで戻って来られたところ、というあたりだろうか。今日もまた暖かい部屋で飯が食える。ああ、ほっとする。
衣食住足りた生活を送られていることに喜びは感じる。むしろ一度失ったからこそ、それらを当たり前に享受できることへの喜びがある。少ないながらも話したり触れ合うことができる他人だって居る。確かに恵まれている。
見えない先のことで頭が一杯だった時期はいつの間にか過ぎた。とりあえず今を、目の前にある今を無理しない程度に勤勉に満たしていくことに平穏と充実を感じる。
ただあまりに空っぽな人生のまま、このまま人生を費やしていくのも虚しいとふとした時に感じる。欲が出てきたのかもしれない。
空っぽと書くと何だか違う気がしてきた。適当な言葉が見つからない。
全くの空っぽというわけではないと思うし、ただ生きていくだけでも十分だと思う気持ちもある。
まぁ何にせよ、今を満たした上で、また違ったレーンにエイヤッと乗り換えていきたいかなという気持ちが湧いてきた。ただそれだけ。